人生しんどみドミノ倒し

共感されるとめちゃくちゃうれしい ある程度見られてある程度承認欲求が満たされれば良い

言葉についてよく思うこと

 言葉というものは、とても言葉では言い表せないような大きな存在だ。私は言葉というものの力をとても信じている。言葉は計り知れないほどの力を持つ。しかし、時には無力そのものである。言葉など何の役にも立たないことだってある。言葉に表せないものの方が世の中には多いし、言葉に表せることなど、この世界の氷山の一角にも満たないようなほんのほんの小さな部分だけだ。人間の知覚の範囲内で生成される言葉にはその外側を表すことができない。逆に、言葉で定義されたことによって世界は人間の目線からカテゴライズされ、他のものを見えなくさせてしまっている。言葉になってしまったものは、私たちの知覚の中ではもうそれ以外にはなれない。例えば、"りんご"というカテゴリーに分けられたものは、全てりんごであり、本当はひとつとして全く同じものなどないにも関わらず、私たちの中では全て"りんご"と総称される。私たちは個々のりんごの差異を、個々のりんごの特別性を、世界にたった一つしかないものであるということを完全に理解することはできない。なぜならカテゴライズされた、"りんご"はたくさんあるからだ。一つ一つ違うものと分かっていても、それでもそれらはりんごたちなのだ。

 もし全知全能の神がいるとしたら、神はきっと言語を持たない。言語を持ってしまった者は全知にはなり得ないからだ。感覚で全てを察知し理解しているのだろう。

 人間は言語で色々なものを表すことができ、同時に嘘をつくことがいとも容易くできる。世界の本質のようなものは言葉では表せないし、所詮人間の使う言葉などうわべのうわべのうわずみにしか過ぎず、意図的であれ無意識であれ少しずつ世界と言葉にはズレが生じているしそう考えれば人間の発する言葉は全て嘘だ。

 言葉は無力だ。本当か嘘かなど分からないしその言葉が的確かどうか言葉に対するお互いの認識のズレがないかどうかも分からないし、信じることでしか会話は成り立たない。悲しい時にいくら慰められても逆に言葉が軽く感じてしまって鬱陶しくなったり、相手の表情ひとつで言葉を信じられなかったりする。

 だけど、逆に言えば、人間は皆、信じ合っているから言葉が使えるのだ。言葉の力は信用の力である。相手と同じ知覚があって、同じように世界が見えていると信じているからこそ会話をしようと思えるのだ。

 言葉には信用の力があって、信用には人を動かす(ひいては何かを動かす)力がある。だから言葉には何かを動かす力があると思う。それが言葉の本質だ。言葉は世界を表しているのではなく、人間の信用を証明しているのである。それなのに言葉は結局(人間の知覚の範囲では)世界を動かしてしまう。言葉が何かを動かせるということは、言葉を使う私は何かを動かせるということだ。だから言葉には責任が伴う。

 私は自分の発する言葉の責任が怖い。話している最中に責任が怖くて話せないのがコミュ障であり、友達と話した後の自己嫌悪や後悔は言葉の責任を意識せずに言葉を使ってしまった事への恐怖である。厄介な考えを持ってしまったものだ。

 もう言いたいことはこれで終わったし言葉には気をつけようっておもいますね

いらない

 よく考える。私がいなくなったら、私の周りに何か影響があるのだろうか。友達とか、きっと、だんだん連絡頻度を下げていって、緩やかにフェードアウトして行ったら、きっとすぐに忘れられてしまうに違いない。もちろん、突然行方不明になったりしたら、みんな驚くだろうし仲良くしてくれている人は悲しんでくれるかもしれない。けれど、それも長くは続かない。忘れ去られるまで一瞬だ。死んだって、数日間は悲しんでくれても、すぐに私の存在など最初からなかったみたいに私のいた世界は回っていくのだろう。私は必要とされていない。

 別に、そんなことないよ、とか言って欲しいわけじゃない。そういう事ではないのだ。好きとか、嫌いとか、そういう事じゃない。そういうことでもあるんだけど、みんなですきーっていうみたいな、そういう次元の話ではない。

 結局、いま好きでも、会わなきゃ忘れられるしそのうち会いたいとも思われなくなるような存在でしかない。というか、私のことを仮に好きと言ってくれる人でも、そこまで強い感情を持って好きと言ってくれている人はいないと思う。その場のノリとか、気分とか、同じコミュニティがある、あったからとか、別に私じゃなくたっていい。どこにいても替えのきく人間だ。

 そもそも、私のことを好きと言ってくれる人だって、こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、私がその人のことを好きだから、好意の返報性によって私のことを好きだと錯覚しているというのがほとんどだと思う。私が好きと言わなくなれば、私がもしいま好きな人たちを嫌いになったら、その人たちは私のことを嫌いになるのだろう。

 あ、ちなみに、好意の返報性は恋愛とかでよく言われる、好きという感情は受け取ると返さなきゃという義務感が働くので自分に好意を向けている人間のことは好きになりやすい、みたいな心理のことです。

 自分でもよく分かるけれど、私は一緒にいても楽しいような相手ではない。うるさいから、あまり仲良くない集団の中で盛り上げ役として、とかなら役に立つかもしれない。でも、実際はこんなにつまらない人間はいないと思う。カリスマ性のある、人を惹きつける人が私の周りには沢山いる。私はその人たちが本当に羨ましい。というか、私以外の私の友達は、みんな多かれ少なかれそういうところがあると思う。私は友達を選ぶ目は誰よりも長けている。みんな、他の人からも好かれ、必要とされ、自分の居場所があるというよりは、他からそこにいてくれと頼まれているような、そんな風に見える。自分だけが居場所をもらってもいいですか、と小さい声で聞き、優しいみんなに小さい居場所を端っこにもらって、そこにいさせてもらってるみたいだ。うるさいし、調子にのるからドカンと真ん中に居座るイキり女みたいになっているけど、目に見えない居場所という概念は、私はいつでも"もらってる側"だ。ずっとそういう意識が付き纏う。ぜひここにいてくださいと頼まれる側になりたくて、いつもうるさくして、結局後悔する。

 あの友達、私のこと好きかな、嫌いかな、興味ないかな、しょっちゅうそんな事を考える。そして次には、その友達に謝りたい今までのことがフラッシュバックみたいにどんどんどんどん流れてきて、ごめんなさいの嵐である。

 中学の友達とか、私が消えてしまっても、すぐに忘れるだろうけど、もう卒業してかなりの時間が経つし、仲良くしても何もメリットがないし、楽しくもないだろうし、会おうと思わなければ会う必要など全くないし、仲違いしたってもうなんら困ることはないし、連絡さえ取らなければもう"他人"になることもできるような間柄なのに、たまにそろそろ会おうよ、ご飯行こうよとむこうから誘ってくれる人(実際1人しかいないけど)、なんでなのか本当に謎だけど、本当に大切にしなければならないなと思う。一生仲良くしようねなんて、本当にそう思ってる友達にしか言わないし、言った人とかそう思った人のことはちゃんと覚えているけど、お互いにそういうクサい馬鹿な事を言い合ったことがあって、その馬鹿な約束を守ってくれる人なんて、そうそういない。そもそもみんなきっと、覚えてさえいないだろう。

 悪いところ直そう直そうと思っててもなかなか直らないし、今までどうやって喋ってきたのかすらわからなくなってきてしまった。そして、悪いところばかりが目立つようになっていってしまっている気がする。悪いところは分かっていても、どういう風に変えたらいいのかが分からない。

 私のいいところ、友達大好き家族親戚大好きなところぐらいしかない。

 私とも一緒にいてくれる、優しくて世界一の友達(たち)を持てるような環境にいた事を、感謝し尽くす他にない。

結局は自分のことがいちばん好き

 私はいままで生きてきて、他人のために何かしたことがない。私の行動は、全て私のためにやっていることでしかない。というか、本当に純粋に、他人の為に何かできる人間などこの世には存在しないと思う。

 一見、人の為にやっているように見えても、突き詰めてみればそれは自分のためだった。別に、情けは人の為ならずとか人にしたことは自分に返ってくるからとかそういうことではなく。もし(他人のためにやっているとと謳いながら、やっても自分には一切利益にならないことを)勝手にやっているとしても、相手がそれに対して、やってくれて当たり前でしょ?みたいな顔をしていたら、腹が立つ。たしかに私が勝手にやってることだけど、当然でしょって顔するのは違くない?感謝くらいしてくれてもよくない?って。結局見返りを求めている。見返りもないのに他人のために何かしたくない。感謝さえしてくれればそれでいいけど、感謝されないのはムカつく。自分で勝手にやってるくせに。

 だから、私の行動は全て相手に好かれたい自分のためにやっていることだ。あとは、"いい奴"になりたい自分のため。

 それで、私はこの考えを勝手に他の人にも適用している。多分みんな、純粋に人の利益のためだけに行動できないと思う。こじつけで言えば、「幸せになって欲しいからやった。見返りは求めてない。」って本気で思っていてもそれはその人に幸せになって"欲しい"自分のためにやってることで、結局主語は自分にしかなり得ない。

 稀にだが、自分がよく見られたいからやっているというのが外から見ていて透け透けな人がいる。自分に酔っている人とか、いい人と思われたいが故のいいことしてますアピールが過ぎていて余計なことばかりしている人とか。そういう人は自分のためにやってることを自覚していないのだと思う。(そもそも自分のためにやってんだろっていう私の勝手な決めつけなんだけども)むしろ自覚してる人は、そういうのが外に見えないようにできている。いい人なんだな〜って人から思われたいんだろうけど、あなたがやってることは大体余計だし、誰も得していないし、むしろ嫌がってるときすらあるのに本人はもちろん、その人のためにやってると思い込んでいるからそのことに全く気づいていないし、みていてイライラする。私、正しく自己を評価できていない人がとても苦手。実力の伴わないナルシストや、空気が読めていないか、本当は嫌われているが周りの優しさで仲良くしてもらっているだけなのに自分が周りを盛り上げてるとかみんなの中心にいるとかそういう風に思い込んでるひとが無理。自分に自信がないから単なる妬みなのかもしれないな。きっとそういう人って、周りを幸せにはしないけど、自分だけは1番幸せなんだろうな。

 とにかく、話が変わったが自己を正確に評価することは大切だと思うし、その評価のとおりに振る舞っている人が私は一番好きだ。人のための行動は、自分のためにやっているし、やるなら完璧に。周りに悟らせないように。それがかっこいいと思っている。私、みんなに陰でいい子だよね〜って言われる人を本当に尊敬しているし、周りの人みんなそんな感じだし、そういう人が大好きだから、自分もそうなれるように頑張りたいと思います。

 それと、人への感謝を忘れず、見返りを渡していくこと、人に何か返せる人に、いいことをしても自分に酔わないように。

進路考えるのだる

 好きなことを、仕事にしたい。やりたくもないことを、興味のないことを永遠にやらされるなんてごめんだ。じゃあ、好きなことって何?パッと思いつくのは、音楽、洋服、文章とか?確かに全部好きだ。でも、それを仕事にする?できる?そう考えると、分からない。もしできるのなら、したい。だけど、それだけの知識も才能も経験もない。そして、それらを得るための努力も、本気でやろうと思えばいくらでもできるが、様々な言い訳を見つけて、きっとしないんだろうと思う。

 なんで努力しないのか。様々な言い訳をつらつら並べてみようと思う。

 まず、本気で1つのことをはじめる勇気がない。他のことを捨てて、それをやる勇気がない。もし、だめだったら、というか多分だめだろうなと先に思ってしまって、やりはじめる前から諦めている。それに、すきなことを好きという勇気がない。馬鹿にされるのが怖いし周りの目が怖い。本気でやるなら、周りにも知られてしまうし、これをやります!と、言わなければならない状況だってたくさん出てくる。笑われるのが怖いし、否定されるのが怖い。お前には無理だろと内心で思われることが怖い。やりたいことをやりたいと言う勇気が私には無い。この間のブログで言ったことにも共通するけれど、自分の意思を表示することは怖い。内面をさらけ出すことはめちゃめちゃ怖い。こんな自分語りブログやっといて何言ってんだって感じだけど。見せたくない内面と、見せたい内面があるのよね。多分みんなそうだと思うのだけど。

  あとは、本当に好きなのかがわからない。好きではあるけど、本気で取り組むほど好きなのか、自分でもわからないし、多分私は、あまり何かに対して熱烈な興味を持つことができない。だからオタクになれない。悲しい。でも持てないものは持てない。ある程度の興味は持てても、すっっっごい好き!っていう風になれない。そんな中途半端なものに、全力を注ぐのはふつうに怖い。だって途中で冷める可能性もあるし、そしたら捨てたものは戻ってこないし。でも今あるもの捨てないと、何かを始めることはできないと思うし。あと、多分才能がないことがわかっているというか、自分には才能ないんだろうなってやる前から思ってるから、(さっきもあったなこんなの)結局できるようにならずに挫折することが怖い。初めから、もっとちゃんと好きだったら、怖くてもはじめるんだろうけど、私はそこまでの興味を全てに対して持っていない。

 それに、私の傾向として、強制されると途端に嫌になってしまうことがあり、やりたかったことが義務になった瞬間に、それが嫌いになってしまうと思うのだ。実際、そういうことはよくあるし。義務感を感じると、好きなことが全てストレスに変わってしまう。だから、多分本当に無責任な人間なんだと思う。一切の責任を負いたくない。

 もちろん、この言い訳たちは本当に思ってることだし、そこまで興味を持ててないっていうのがいまから言うことの原因なのかもしれないけど、結局最後に来る私の感情は"面倒臭い"だ。私の人生において、めんどくさいというのは1番大きな部分を占めている。結構大事なことも今までめんどくさがって適当に決めてきた。それで大失敗したことがないから余計そうなってしまう。大学も面倒くさいから適当にここでいいかって決めたし、高校もそうだったし、中学の部活も、高校の部活も大学でのサークルも、結果的に正解の選択だったとは思うけど、たいして他を見ずに調べるのめんどうだしここでまあいいか、と言う風に決めてきた。どんなに悩んで決めたって、失敗か成功かは後になってからしかわからないし、考えて失敗したらその方が嫌だし、だったら考える時間の無駄だって思ってしまう。それに、結局はどんな環境を自分で選んだとしても、そこで自分が満足できるかできないかはほとんどの場合、自分の態度によって変わるのだと思う。だから、考えるのは面倒だし、こんな真っ当そうな言い訳もあるから、余計にめんどくさがって生きてきた。調べごともめんどくさがってやらずに適当にやればなんとかなると思って、事前に調べなきゃいけないことを調べずにいたり、それでもなんとかなってきてしまったから、今更めんどくさがらずに何かをやるなんてわたしには無理なんだろうなと思う。

 将来には不安しかないし、就活は怖いし、社会人にはなりたくないし、社会生活はやめたい。

便利な世の中、死んでいく心

 カッケー題名思いついちゃったぜ!!!と、思った。題名かっこよくね?めっちゃかっこついたと思ってる。

 全部のブログでそうだけど、今からいうこと、私一個人の考えだし、ちがくね?って思っても、フーンくらいに流して欲しいです。

 みんなしにたいって思うことあるよね。みんなじゃない、全然みんなじゃないけど結構多くの人がしにたいって言ってるのを目撃している。異常だ。というと語弊がある。そうじゃなくて、しにたいと思うこと、普通だと思うし私も何回も思ったしそりゃ思うよな〜と納得もする。けれど、客観的によく考えると、異常なことじゃないですか。しにたいと思うことが異常であるということを忘れるほどに、しにたいという気持ちが世の中に浸透している。それが当たり前であると思ってしまう人がいるくらいには、しにたいが溢れている。私、しにたいという感情、昔、本当に全員が持ってると思ってて、今はそれがそんなことないってわかってるけど、しにたいって思ったことない人は何も考えてない能天気野郎で信用ならないとまで思っていた。そんなことはない。ていうか過半数が多分思ったことない。だからもうそれに気づいた時結構衝撃だった。あとあんま関係ないんだけど、人間楽に死ねる方法なんかないんだって思ってたのに、テレビで安楽死の薬を飲んで死ぬってやつやってて、えっ楽に死ねるじゃんと知った時、なんで今まで教えてくれなかったんだと思って憤りを感じたのと同時に、それでも薬を手に入れることはできないというもどかしさでウワァーーーってなったのをすごく覚えている。

 話は変わるが、世の中、便利になった。らしい。私が生まれて物心ついた時にはもう便利だったし、物心つきたてのその時より今の方が断然便利になっているのは知ってるけど、緩やかに、アハ体験みたいにだんだん"便利"が浸透してきているから、気付かぬうちに、当たり前がもっと便利に変わっていて、今、こんなにもいろいろなことが簡単にできる。それに、制度が整っているから、生まれてきさえすれば、死ぬまでちゃんと、生きていける。生きられることが当たり前で、生きることが簡単になりすぎた。

 代わりに私たちは様々なものを失った。考えることをやめた。まーよく聞く文句だけれど、分からなければ考える前にすぐスマホで調べられる。どんな情報でも大体調べればすぐ手に入る。職を失って金を失っても保険がある。なんとか生きていくことができる。残されたのは、時間だ。私たちは、考える隙を与えられてしまった。そして、"生きるという目的"を失った。

 人間の動物的本能としては、"生きること"そのものが、目的なのだろう。そこに、理由などいらないのだろう。そして、昔はきっと、もっと生きることが大変だった時代はきっと、"生き残ること"を目的として人々は生きていたのだろう。だが、生きることが容易になってしまった今、考える隙を与えられてしまった今、私たちは、他の目的を探すようになってしまった。生きることに理由をつけるために、生きる目的、何をするために生きるのかを考えるようになってしまった。結果、もともと生きることに理由などなかったのだから、目的を見つけられなかった私たちは、生きることが許されなくなった。違うな、自分で意味もなく生きていることがやるせなくなって、許せなくなった。

 これが、文明の発展の負の副産物だと思う。実際、発展途上国の自殺率は、先進国よりも低いそうだ。生きるのに精一杯で必死ならば、自分からしにたいなどと、思わないだろう。生に対してそもそも、疑問を抱くことはきっとないのだろう。生物として、しにたいという感情は狂っているのだ。生存本能に反している。それでもしにたいと思ってしまうのは、生きる理由が見つけられないから。多分、生きることを真面目に考えすぎているからだ。生について、考えても分かるはずがない哲学を、答えがあることが当たり前だと思い込んで、正解があると思い込んで、もともとはなかったそれが見つけられないから自分は出来損ないだと苦しくなり、生きる意味が無いように感じてしまうのかもしれない。こればかりは考えても分からないけど。そうなのかもな、と思った。そもそもは、生きること自体が意味だったはずなのにな。

 もっと楽に、気楽に楽しく生きていきたいけど、中途半端に頭が良くなってしまって、何も知らない何も考えない馬鹿ではいられないし、何も考えないではいられない癖に、答えは分からないまま、生に苦しめられていくのだろう、私は。

人気者になりてぇや

 私は、友達といるとき、いつも主人公ではなかった。いつも主人公は友達だった。

 私の友達には人気者が多い。私の横にいる友達は、他の子達の横にもいた。私と2人で歩いていた友達が、人に囲まれてしまって居場所がなくなることや、私と一緒にいた友達に気付いた私の知らないその友達の友達が、私と一緒にいた友達の名前を呼びながら嬉しそうに駆け寄ってきて、友達を取られてしまうことなんか、しょっちゅうあった。いつでもそうだった。うるさくて賑やかなだけの私が輪の中心になれることなんか、あっても一瞬で、すぐに飽きられてしまった。中学でも、高校でも、私の大好きな友達たちは、人気者だった。 

 自分で言うのもなんだが、小学生の頃の私は人に囲まれていた。人がいつも寄って来た。だから、人気者の辛さもよくわかる。人気者は、大変でつらい。だけど中学生になって、私の1番仲良くなった友達は、圧倒的に人望があった。私の人望なんか、カスだった。私の他の友達はみんなその子の方に集まっていった。途端に輪の中心が変わった。私は外側でポツンと見ていた。今まで私のところにきてくれた友達も、人望のある友達も同時に取られてしまった。小学生の頃の私は人気者で、苦しかったけれど、でも、あんなの贅沢な悩みだったと思った。相手にされない方がよっぽどつらい。私はいつも人気者になりたかった。今だって人気者になりたい。それを言うと、人気者は辛いよって言われたりもするけど、それを承知の上で尚、なりたいのだ。小学生の私は人気者だったけれど毎日家に帰ってきて泣いていたもの。

 友達が人気者だったから、私はいつもその後ろをついていった。一列になるなら、大抵自分から後ろに行くようになったし、1番後ろが落ち着いた。前に出ると不安で不安で、後ろを常にみて友達の姿を確認しないと歩けなかったりする。私は友達が大好きで、特別な存在だと思っているけれど、人気者の友達にとっては私なんか、たくさんたくさんいる友達のうちの1人に過ぎないんだろうなという考えが、いつもどこかにあった。好きな友達に、好かれたかった。友達が私の特別の友達であるように、私も友達にとって特別になりたかった。けれど、無意識に私はいつも、友達よりも自分を下に見ている。対等になりたくて、だけど対等になりたいと思ってる時点で、私は自分で自分が友達よりも下だと思い込んでいる。人気者はもともと先を行くし、私も好かれるために後ろをついていって、"上の人"の言うことは聞くようになって、どんどん他人に従順になっていった。

 好かれたいと言う気持ちが、だんだん恐怖に変わっていった。こいつは別にいなくてもいいと思われてしまったらどうしよう、その他大勢にされてしまうのがこわい、嫌われたらどうしよう。

 結果的に、私は自分の意思を表明することができなくなってしまった。意思を表明できなくなって、私の意思に意味がなくなると、だんだん、その意思さえ薄くなっていってしまった。

 例えば、友達と出かけていて、昼食何を食べようか、という話になったとする。日本人は遠慮しがちだから、多くの人がこういう経験があると思うが、お互い遠慮し合って自分の行きたい店が言えない。自分の行きたいところを言うのは、ワガママのように思えてしまうし、相手が遠慮してしまうのが申し訳ない。だから言えない。このくらいなら、誰にでもある経験だと思う。実際ワガママなくらいな方がすぐに入るところが決まってありがたいことが多い、それを分かっていても言えない。私のはその遠慮が肥大化してしまったものだ。本当に些細なことでさえ決められない。どうしたい?と聞かれると、うーん、とかなんとか言って迷い続けて相手が何か言うのを待ってしまう。些細なことだと、本当にどっちでも良くて、だったら、相手に少しでもこちらがいいとかそう言う意思があるなら、それにしたら1番丸く収まると思ってしまう。それでも相手が決めてくれないと、相手がどちらに行きたいかを想像して、自分のしたいことではなく相手を基準にしてしか考えられなかったり、落ち着いて冷静に考えられずに焦ってしまって自分がしたいものとは違う方をあえて選んでしまったりする。これがいいな、と言う気持ちがあっても相手は違うことを望んでいたら、私に合わせさせてしまうことになるのではないかということがひたすらに恐怖で、意見を述べたり決断をするのは苦痛ですらある。それだけに留まらない。人についていってしまう。喋っていた人が例えばトイレに行こうとすると、何も考えずについていってしまう。一緒のことをしていないと不安になってしまう。ご飯を食べていても、相手の様子を伺ってしまって、相手がお茶を飲むと、無意識に自分も飲んでしまうこともよくあるし、お皿の上に色々なおかずがあったとして、相手を伺いながら無意識に相手が今食べているものと同じものを食べようとしてしまうこともよくある。

 人に追従することをやめたい。意思を持ちたい。自分のしたいことを言えるようになりたい。簡単なことがどうしてもできない。どうしてこんなこともできないんだろう。人に何か聞かれると、なんて答えるのが正解なのか、相手を満足させられるのか、相手が何を求めているのか、相手の予想と違うことを言って嫌われやしないか、私の言ったことが相手を不快にしやしないか、軽蔑されてしまうのではないか考えてしまって答えることが怖い。多分、聞いた側は単なる世間話で、別に求めていることはないし何を言ってもふーん、と思うくらいなんだろう。もともとそこまでの興味もないだろう。全部全部、分かってるのに。自意識過剰なことも分かっているのに。それでもこわいものはこわい。それで答えられなくてどもったり誤魔化したり茶化したり相手に決断を任せてしまったり、そっちの方がよっぽど嫌われるのも分かっていて、それでまた嫌われるのが怖くなる。普通の会話の中でも、自分の思ってることが言えずに何も言葉を発することができなくて、結果的に無視したみたいになってしまうことや、つまらなそうなうっすい反応しか返せないことも多々ある。

 なんでこんなに生きるのに向いてないんだろう。とにかく私は、ちゃんと、自律したいのだ。思ったことを口に出す、やりたいことを言う、そのごく簡単な、生きるのに必要な、人間との関係上必要な行為ができるようになりたい。それだけだ。

友達はァ〜人生の宝ッ!!!

 人生なんて、結局は全員他人だから成り立つ。いちいち他人の悩みや喜び悲しみやら全ての感情を全て共感して全く同じように感じていたら精神がもたない。親だって、遺伝子をもらったし腹の中にいたわけだけど、結局生まれてしまった後のいまとなっては、私とあなたでしかない。それに親子という名前をつけて戸籍という契約で縛っているだけだ。現実は、私とあなたであり、結局は、他人じゃん、と思う。親だからと言って子供の全てが分かるわけではないし子供だから親のことが全てわかるわけではない。

 人の気持ちは予測することはできても、話を聞くことはできても、全く同じものを共有することはできないし、言わなきゃわからないどころか言われたってその人自身も分かっていないことがあるかもしれないし、口で説明された、限られた言語で語られた感情を完全に理解することなど私には不可能だ。私は誰よりもあいつのことを分かっているし、本人よりも分かってる!と思っても、仮に本当にその認識が正しかったとして、本人よりも分かってしまっている時点でそれは既に同じ感覚を共有していない。

 だから、せめて、分かる範囲だけ、共感できる範囲だけを共有して、互いを思いやって少しでも生きやすくなるように生きているのが今のこの状況なのだと思う。そうして関わりを持つ人々に家族、恋人、友達、同僚などと名前をつけて社会が成り立っている。

 しかし、"友達"というのは、ほかの人間間の関係と異なる性質を持っているように感じる。例えば、家族は血の繋がりがあり、なかったとしても法律上の契約で縛られているし、それぞれに入籍した者・親が同じで先に生まれたか後に生まれたか、など決まりがある。恋人も、原則は1人につき1人しかいないし、恋愛感情というおそらくかなり強い感情をお互いに持ち、人によって色々違うところはあるだろうがさまざまな制約があって(例えばほかの異性とはちゅーしない!とか)成り立つ関係だ。では、友達はどうだろう。友達には、具体的な形がないし、契約もないし、"こういう関係性"と一概に説明できるものではない。あやふやで、人によって全然異なり、1人の人間にとっての何人かの友達でもこの人はこういう関係、あの人はこういう関係、ときっと十人十色な関係があるはずだ。秘密をなんでも打ち明けられる友達、何も考えずただ楽しく騒げる友達、たくさんのことを教えてくれる友達、エトセトラ。

 この曖昧で弱い精神だけの繋がりで、それでもずっと"友達"という関係を保っているのは最早奇跡ではないのか?例えば高校で同じクラスになっても、ずっと友達とは言えずクラスメイトという感じのままだ終わって、その後は"高校3年生の時のクラスメイト"として"過去に関わりがあった人"のようになってしまう人もたくさんいる。実際は、大半がそんなもんだ。それでも、その中に、ずっと関わり続けていく人たち、関わり続けていたい人たち、いつでも会いたい人たちがいる。

 そもそも私には、好きでも会いたいと思わない人なんかいっぱいいるし、いつどんな時にその人のこと考えても会いたいと思える人なんてごく限られている。そういう人たちは、いつ会っても楽しかった記憶しかないし、いつ会っても好きだった記憶しかない。これ、すごすぎない?すごいよね。もちろん、暗い話したとか、そこまで仲良くなかった頃だったから気まずかったとか、そういう記憶もあれど、それでもその人のことはずっと好きだった記憶ばかりだし、いまとなっては、いい思い出だから、思い出せば楽しい気持ちになれる。

 そして、こういう関係を保てる友達というのは、相手もある程度は自分のことを好いていてくれていなければ実現不可能だ、と、思う。

 私は幸せだ。間違いなく、幸せ者だ。友達が好きだし、きっと私のことを好きな友達もいると思う。ありがとう。あーーーーよかった、たまたま同じクラスになったりたまたま同じ部活だったりたまたま同じサークルに所属したりたまたまバンド組んだりたまたまライブハウスで出会ったりして、よかった!!!!!!!!!!本当に!!!!!!

 出会いがこのたまたま偶然、てところも、友達のすごいところだよなあ。え?やばいよね、たまたま出会えてなかったかも知れないんだよ?無理じゃん、絶対無理よかった本当に、メンヘラの人格ゥ〜✌️

 最初の方〜の話に戻るけど、完全には分かり合えない私たちが、それでも分かり合える小さな範囲で互いのことを考え、その重なりが心地良く感じられる人たちと友達になれて、なんの縛りも契約もない、なんの責任も、離れることのリスクもない中でずっと一緒にいたいなとか、ずっと会い続けるんだろうなこの人とは、とか、そういう風に思わせてくれる人たちがいることが私の幸せだなあと、つくづく思います。