人生しんどみドミノ倒し

共感されるとめちゃくちゃうれしい ある程度見られてある程度承認欲求が満たされれば良い

言葉についてよく思うこと

 言葉というものは、とても言葉では言い表せないような大きな存在だ。私は言葉というものの力をとても信じている。言葉は計り知れないほどの力を持つ。しかし、時には無力そのものである。言葉など何の役にも立たないことだってある。言葉に表せないものの方が世の中には多いし、言葉に表せることなど、この世界の氷山の一角にも満たないようなほんのほんの小さな部分だけだ。人間の知覚の範囲内で生成される言葉にはその外側を表すことができない。逆に、言葉で定義されたことによって世界は人間の目線からカテゴライズされ、他のものを見えなくさせてしまっている。言葉になってしまったものは、私たちの知覚の中ではもうそれ以外にはなれない。例えば、"りんご"というカテゴリーに分けられたものは、全てりんごであり、本当はひとつとして全く同じものなどないにも関わらず、私たちの中では全て"りんご"と総称される。私たちは個々のりんごの差異を、個々のりんごの特別性を、世界にたった一つしかないものであるということを完全に理解することはできない。なぜならカテゴライズされた、"りんご"はたくさんあるからだ。一つ一つ違うものと分かっていても、それでもそれらはりんごたちなのだ。

 もし全知全能の神がいるとしたら、神はきっと言語を持たない。言語を持ってしまった者は全知にはなり得ないからだ。感覚で全てを察知し理解しているのだろう。

 人間は言語で色々なものを表すことができ、同時に嘘をつくことがいとも容易くできる。世界の本質のようなものは言葉では表せないし、所詮人間の使う言葉などうわべのうわべのうわずみにしか過ぎず、意図的であれ無意識であれ少しずつ世界と言葉にはズレが生じているしそう考えれば人間の発する言葉は全て嘘だ。

 言葉は無力だ。本当か嘘かなど分からないしその言葉が的確かどうか言葉に対するお互いの認識のズレがないかどうかも分からないし、信じることでしか会話は成り立たない。悲しい時にいくら慰められても逆に言葉が軽く感じてしまって鬱陶しくなったり、相手の表情ひとつで言葉を信じられなかったりする。

 だけど、逆に言えば、人間は皆、信じ合っているから言葉が使えるのだ。言葉の力は信用の力である。相手と同じ知覚があって、同じように世界が見えていると信じているからこそ会話をしようと思えるのだ。

 言葉には信用の力があって、信用には人を動かす(ひいては何かを動かす)力がある。だから言葉には何かを動かす力があると思う。それが言葉の本質だ。言葉は世界を表しているのではなく、人間の信用を証明しているのである。それなのに言葉は結局(人間の知覚の範囲では)世界を動かしてしまう。言葉が何かを動かせるということは、言葉を使う私は何かを動かせるということだ。だから言葉には責任が伴う。

 私は自分の発する言葉の責任が怖い。話している最中に責任が怖くて話せないのがコミュ障であり、友達と話した後の自己嫌悪や後悔は言葉の責任を意識せずに言葉を使ってしまった事への恐怖である。厄介な考えを持ってしまったものだ。

 もう言いたいことはこれで終わったし言葉には気をつけようっておもいますね