人生しんどみドミノ倒し

共感されるとめちゃくちゃうれしい ある程度見られてある程度承認欲求が満たされれば良い

いらない

 よく考える。私がいなくなったら、私の周りに何か影響があるのだろうか。友達とか、きっと、だんだん連絡頻度を下げていって、緩やかにフェードアウトして行ったら、きっとすぐに忘れられてしまうに違いない。もちろん、突然行方不明になったりしたら、みんな驚くだろうし仲良くしてくれている人は悲しんでくれるかもしれない。けれど、それも長くは続かない。忘れ去られるまで一瞬だ。死んだって、数日間は悲しんでくれても、すぐに私の存在など最初からなかったみたいに私のいた世界は回っていくのだろう。私は必要とされていない。

 別に、そんなことないよ、とか言って欲しいわけじゃない。そういう事ではないのだ。好きとか、嫌いとか、そういう事じゃない。そういうことでもあるんだけど、みんなですきーっていうみたいな、そういう次元の話ではない。

 結局、いま好きでも、会わなきゃ忘れられるしそのうち会いたいとも思われなくなるような存在でしかない。というか、私のことを仮に好きと言ってくれる人でも、そこまで強い感情を持って好きと言ってくれている人はいないと思う。その場のノリとか、気分とか、同じコミュニティがある、あったからとか、別に私じゃなくたっていい。どこにいても替えのきく人間だ。

 そもそも、私のことを好きと言ってくれる人だって、こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、私がその人のことを好きだから、好意の返報性によって私のことを好きだと錯覚しているというのがほとんどだと思う。私が好きと言わなくなれば、私がもしいま好きな人たちを嫌いになったら、その人たちは私のことを嫌いになるのだろう。

 あ、ちなみに、好意の返報性は恋愛とかでよく言われる、好きという感情は受け取ると返さなきゃという義務感が働くので自分に好意を向けている人間のことは好きになりやすい、みたいな心理のことです。

 自分でもよく分かるけれど、私は一緒にいても楽しいような相手ではない。うるさいから、あまり仲良くない集団の中で盛り上げ役として、とかなら役に立つかもしれない。でも、実際はこんなにつまらない人間はいないと思う。カリスマ性のある、人を惹きつける人が私の周りには沢山いる。私はその人たちが本当に羨ましい。というか、私以外の私の友達は、みんな多かれ少なかれそういうところがあると思う。私は友達を選ぶ目は誰よりも長けている。みんな、他の人からも好かれ、必要とされ、自分の居場所があるというよりは、他からそこにいてくれと頼まれているような、そんな風に見える。自分だけが居場所をもらってもいいですか、と小さい声で聞き、優しいみんなに小さい居場所を端っこにもらって、そこにいさせてもらってるみたいだ。うるさいし、調子にのるからドカンと真ん中に居座るイキり女みたいになっているけど、目に見えない居場所という概念は、私はいつでも"もらってる側"だ。ずっとそういう意識が付き纏う。ぜひここにいてくださいと頼まれる側になりたくて、いつもうるさくして、結局後悔する。

 あの友達、私のこと好きかな、嫌いかな、興味ないかな、しょっちゅうそんな事を考える。そして次には、その友達に謝りたい今までのことがフラッシュバックみたいにどんどんどんどん流れてきて、ごめんなさいの嵐である。

 中学の友達とか、私が消えてしまっても、すぐに忘れるだろうけど、もう卒業してかなりの時間が経つし、仲良くしても何もメリットがないし、楽しくもないだろうし、会おうと思わなければ会う必要など全くないし、仲違いしたってもうなんら困ることはないし、連絡さえ取らなければもう"他人"になることもできるような間柄なのに、たまにそろそろ会おうよ、ご飯行こうよとむこうから誘ってくれる人(実際1人しかいないけど)、なんでなのか本当に謎だけど、本当に大切にしなければならないなと思う。一生仲良くしようねなんて、本当にそう思ってる友達にしか言わないし、言った人とかそう思った人のことはちゃんと覚えているけど、お互いにそういうクサい馬鹿な事を言い合ったことがあって、その馬鹿な約束を守ってくれる人なんて、そうそういない。そもそもみんなきっと、覚えてさえいないだろう。

 悪いところ直そう直そうと思っててもなかなか直らないし、今までどうやって喋ってきたのかすらわからなくなってきてしまった。そして、悪いところばかりが目立つようになっていってしまっている気がする。悪いところは分かっていても、どういう風に変えたらいいのかが分からない。

 私のいいところ、友達大好き家族親戚大好きなところぐらいしかない。

 私とも一緒にいてくれる、優しくて世界一の友達(たち)を持てるような環境にいた事を、感謝し尽くす他にない。