人生しんどみドミノ倒し

共感されるとめちゃくちゃうれしい ある程度見られてある程度承認欲求が満たされれば良い

便利な世の中、死んでいく心

 カッケー題名思いついちゃったぜ!!!と、思った。題名かっこよくね?めっちゃかっこついたと思ってる。

 全部のブログでそうだけど、今からいうこと、私一個人の考えだし、ちがくね?って思っても、フーンくらいに流して欲しいです。

 みんなしにたいって思うことあるよね。みんなじゃない、全然みんなじゃないけど結構多くの人がしにたいって言ってるのを目撃している。異常だ。というと語弊がある。そうじゃなくて、しにたいと思うこと、普通だと思うし私も何回も思ったしそりゃ思うよな〜と納得もする。けれど、客観的によく考えると、異常なことじゃないですか。しにたいと思うことが異常であるということを忘れるほどに、しにたいという気持ちが世の中に浸透している。それが当たり前であると思ってしまう人がいるくらいには、しにたいが溢れている。私、しにたいという感情、昔、本当に全員が持ってると思ってて、今はそれがそんなことないってわかってるけど、しにたいって思ったことない人は何も考えてない能天気野郎で信用ならないとまで思っていた。そんなことはない。ていうか過半数が多分思ったことない。だからもうそれに気づいた時結構衝撃だった。あとあんま関係ないんだけど、人間楽に死ねる方法なんかないんだって思ってたのに、テレビで安楽死の薬を飲んで死ぬってやつやってて、えっ楽に死ねるじゃんと知った時、なんで今まで教えてくれなかったんだと思って憤りを感じたのと同時に、それでも薬を手に入れることはできないというもどかしさでウワァーーーってなったのをすごく覚えている。

 話は変わるが、世の中、便利になった。らしい。私が生まれて物心ついた時にはもう便利だったし、物心つきたてのその時より今の方が断然便利になっているのは知ってるけど、緩やかに、アハ体験みたいにだんだん"便利"が浸透してきているから、気付かぬうちに、当たり前がもっと便利に変わっていて、今、こんなにもいろいろなことが簡単にできる。それに、制度が整っているから、生まれてきさえすれば、死ぬまでちゃんと、生きていける。生きられることが当たり前で、生きることが簡単になりすぎた。

 代わりに私たちは様々なものを失った。考えることをやめた。まーよく聞く文句だけれど、分からなければ考える前にすぐスマホで調べられる。どんな情報でも大体調べればすぐ手に入る。職を失って金を失っても保険がある。なんとか生きていくことができる。残されたのは、時間だ。私たちは、考える隙を与えられてしまった。そして、"生きるという目的"を失った。

 人間の動物的本能としては、"生きること"そのものが、目的なのだろう。そこに、理由などいらないのだろう。そして、昔はきっと、もっと生きることが大変だった時代はきっと、"生き残ること"を目的として人々は生きていたのだろう。だが、生きることが容易になってしまった今、考える隙を与えられてしまった今、私たちは、他の目的を探すようになってしまった。生きることに理由をつけるために、生きる目的、何をするために生きるのかを考えるようになってしまった。結果、もともと生きることに理由などなかったのだから、目的を見つけられなかった私たちは、生きることが許されなくなった。違うな、自分で意味もなく生きていることがやるせなくなって、許せなくなった。

 これが、文明の発展の負の副産物だと思う。実際、発展途上国の自殺率は、先進国よりも低いそうだ。生きるのに精一杯で必死ならば、自分からしにたいなどと、思わないだろう。生に対してそもそも、疑問を抱くことはきっとないのだろう。生物として、しにたいという感情は狂っているのだ。生存本能に反している。それでもしにたいと思ってしまうのは、生きる理由が見つけられないから。多分、生きることを真面目に考えすぎているからだ。生について、考えても分かるはずがない哲学を、答えがあることが当たり前だと思い込んで、正解があると思い込んで、もともとはなかったそれが見つけられないから自分は出来損ないだと苦しくなり、生きる意味が無いように感じてしまうのかもしれない。こればかりは考えても分からないけど。そうなのかもな、と思った。そもそもは、生きること自体が意味だったはずなのにな。

 もっと楽に、気楽に楽しく生きていきたいけど、中途半端に頭が良くなってしまって、何も知らない何も考えない馬鹿ではいられないし、何も考えないではいられない癖に、答えは分からないまま、生に苦しめられていくのだろう、私は。